心臓大動脈弁閉鎖不全症覚書

(7)
9月1日
術後5日目。レントゲン、血液検査、体重73.7kg。入院生活もだんだん退屈し始めてきた、それだけ順調な回復なんでしょうが。
 家でもほとんどテレビを見ないのだが、本当にテレビは面白くない。不快な宣伝、不快な番組、10分テレビを見続けることができません。仕方がないのでキンドルで本を読むが、こちらも長続きはしません。ベットの上で「ぼー」と過ごす時間が続きます。

9月2日
術後6日目。血液検査、体重72.8kg、歩行訓練450m。手術の傷の痛みはありません、寝ちがったのか首や脇腹の筋肉が痛い。

9月3日
術後7日目。レントゲン、血液検査。わずかな検査時間以外は「うとうと。ぼーっ」と過ごす。歩行訓練950m。

 9月4日
術後8日目。レントゲン、血液検査、超音波検査、心臓エコー検査。15時シャワーに入る。術後初めてのシャワーで気持ちよかったが手術跡を初めて見て、おそるおそる私の手を当ててみた。歩行訓練1050m。

9月5日
術後9日目。逸子さん来る。術前より体調が良いような気がする。

9月6日
術後10日目。4時半起床。体重71.7kg。
術後のワーファリンの量が定まらず今日まで点滴を受けていたが、それも終わりのようだ。鬱陶しかった私の身体に繋がっていたチューブとお別れだ。
 食事が美味しくない。ニューハートワタナベ国際病院の食事は名のある和食の料亭が監修しているようだが、野菜等の素材がまずく食が進まない。身体の回復に反比例するよう食事を残すようになる。歩行訓練は階段の上り下りなどに挑戦。

9月7日
術後11日目。体重71.1kg。今日から316号室に移動。12畳ほどの部屋にキングサイズのベット、4畳ほどの和室付き。トイレ、テレビ、シャワー完備、差額ベット代15000円。
 便秘が気になり下剤を処方してもらう。痛み止めも止める。


9月8日
術後12日目。3時半起床。今日の予定は血液検査とレントゲン、そして外出歩行訓練。日中は「うとうと」して過ごす。相変わらず食事が「苦行」だ。
夕方、外出歩行訓練。病院近くのコンビニで食べ物を購入。「買い食い」の楽しみを満喫する。

9月9日
 術後13日目。熟睡のできない毎日だ。体重70.7kg。
朝の回診で木内医師より「退院」の話がある。家まで電車で帰るのは辛いので、次男の都合の良い月曜日に退院したい旨を伝える。明日の日曜退院は事務手続きなどでできないので「最短」での退院だ。
 昨日の「外出歩行訓練」で味を占めたので、今日も迷わず「外出歩行訓練」。退院も決まり足取りも元気になる。

9月10日
術後14日目。そしてニューハートワタナベ国際病院での入院最後の日曜日。8日、9日と「買い食い」をしたためか、体重が少し戻っている。71.6kg。
17時半頃夜勤の看護師が来る。「明日の退院について何か不都合はありませんか?」と尋ねられたので「抜糸がされていないのですが、これは明日ですよね」と看護師に聞くとあわてて医者が来て抜糸をしてくれた。「チクッ」と痛かったが、退院、たいいん、 タイイン、、、私の心の中は明日の退院でいっぱいだ。
9月11日
術後15日目。5時起床。10時に次男が来てくれた、遅れること15分ほどで妻も到着。精算、お世話になった皆さんに挨拶をして次男の車で家路につく。

 心臓の手術後3ヶ月ほどは手術前より「苦しい」と言われているが、私の心臓は順調に回復しているようだ。心臓が「元気」になるには(普通の人のように動けるようになるには)1年ほどの時間が必要とも言われる。無理をせず、慌てず、心臓をいたわり、少しずつ普通の生活に戻れるようにリハビリに励みたい。(終わり)

心臓大動脈弁閉鎖不全症覚書

(6)
8月28日
5時起床。月曜日です、そして私の手術日です。気の弱い私ですので今日の手術にもう少し「パニクル」かと思っていましたが、落ち着いた平日の朝を迎えられました。
 6時、手術前の体重を量る、74.5kgだ。今日の手術のため昨日の夜9時から禁食、飲水は250mlと決められている。朝寝おきに半分の125mlの水を飲む。
風邪も、腹痛も、体調を壊すこともなく手術日を迎えられた。
7時、妻が次男の家より来る。
8時20分、手術着に着替えて病室担当の看護師と歩いて1階の手術室に向かう。病室看護師から手術担当看護師に申し送り。8時40分、手術用ベットに寝かされる。看護師、医師の手際良い手術前準備に感心していると、麻酔をかがされて、1,2,3,4,5,、、、。
 9時半頃私の手術が始まり、11時半には終わったようだ。私の心臓を止めていた時間は約30分、輸血もせず自己血液で手術は成功した。当たり前のことだが、手術中は私は夢も見ませんし、勿論記憶もありません。私の人生から切り取られた時間です。
 「光がまぶしく、音がうるさく、暑い」そんな不快な気分でこの世に戻ってきました。多くの方がブログ等に書かれている「生きている、生還した」などと言う前向きな気持ちは無く、ただただ不快で自分の置かれている状態を把握するのに時間がかかります。
 斜め右前にある時計を見ますと7時半を指しています。「まだ9時、11時、3時?いや12時15分、なんと進むのが遅い時計だろう」とその後はその時計を追って一晩を過ごす。朝を待つ気持ちが私の中にあったので、時計は夜の時間を差きているのはわかっていたようだ。
 妻は術日の夕方6時頃に「私を見て笑った」と後になって言いますが、本人は覚えていません。

8月29日
 術後2日目。今日も集中治療室(ICU)。
朝、妻がきて会話をするのですが言葉が上手く出てきません。話そうと思って会話を始めると話すことを忘れる、頭の中が白紙状態になります。夕方には少し改善したのですが、木内医師とも、看護師とも、妻とも会話が続きません。木内医師も少し心配そうです。
 ただ自分の頭の中での「思考」はそれなりにまとまっていて、言葉に対する「反射神経が鈍くなっている」感じです。

8月30日
術後3日目。朝、妻が来る。会話がほぼ通常に戻っている、良かった。午前中に一般病棟に移動。病棟番号410号、10畳ほどの部屋にキングサイズのベット(私は集中治療室から患者用のベットで運ばれ、そのままそのベットですごしましたのでキングサイズのベットは使わないままでした)、トイレ、シャワー、テレビ付きで差額ベット代15000円。金銭的にあまり豊かとは言えない我が家です、差額ベット代は「贅沢かな」とも思ったのですが、今出せないお金ではありません。生きるか死ぬかの手術を受けるのです「まあ、良いか」です。
レントゲン、血液検査。午後100mほど歩いてみる。

 8月31日
術後4日目。痰を出そうと咳をすると少し胸が痛いが、そのほかには痛みはない。胸を切り開いて、心臓を出しての大手術をしたのだから痛みは0とは言わないが、日中は痛み止めを飲まなくても過ごせる。レントゲン、血液検査、体重73,8kg術後は点滴のため太る(むくむ)人が多いようだが、私の体重は順調に推移している。
 200m歩行。歩行訓練中、80歳を過ぎたと思われるおじいさんに「サッサッ」と追い抜かれ、手術日を聞きますと8月15日とのこと「私より2週間前か、私も頑張ろう」と納得。(その3日後に歩行訓練中に一緒になり、私の歩く速度の方が早くなっていました。看護師さんも言っていましたが「私は本当に順調な回復」をしていたようです)

心臓大動脈弁閉鎖不全症覚書

(5)
8月26日
5時15分起床。寝付かれない夜だった。
9時、病院長(大竹**医師)回診、聴診器を私の胸に当てて「典型的な心臓弁膜症の音がする」と言われ私に聴診器を貸してくれた。初めて聴診器で聞いた私の心臓音です「わからない」が本当のところでした。その後病院長より「これは絶対に直ります、心臓も少しずつ小さくなりもとのように元気になれますから」と力強く励ましていただいた。素直にうれしい。手術の不安はあるが、直った自分を思い描き頑張ろうと思う。
 手術後の呼吸の仕方、痰の出し方の練習をするように看護師に言われる。
 10時、頭部のCT検査。医師、看護師、検査技師、事務系の方、すべての病院スタッフは教育が行き届いていて人を不快にさせる人はいない。「病院は我慢するところ」と言う今までの考えは変わりつつある。
 10時半、麻酔科の宮田医師より28日の術日の麻酔についてリスク等の説明を受ける。
 私が会ったニューハートワタナベ国際病院のすべての医師は「患者に医師の専門知識を押しつけるでなく患者が納得するまで話し合い、勿論患者に媚びるでもなく、患者の目線で考え、悩みや不安解消に努める」、良い意味で私には新鮮な驚きの連続だ。
 3時半から4時シャワー。外は昨日、今日と暑いようだが病院の私の部屋内は24−5℃。眠くなる、テレビを見ても日頃見慣れないためか面白くない、キンドルで本を読んですごす。ベットで深呼吸法を練習して、そのままうとうと、21時睡眠。やはり外の車の音が気になるのでイヤーホンを耳にして寝る。

8月27日
 日曜日、5時50分起床。睡眠は浅く、細切れだったが寝られた。
 9時半、看護師より明日の手術後について説明がある。「痰だしは痛いが我慢すると肺炎を起こす可能性があるので痰は我慢しないで出すこと」、「手術当日は麻酔が効いているので痛みはないが、その後2−3日腹に刺されたチューブが(心臓の周りに溜まる液を出すため)痛いと思うが痛みは我慢せず看護師に言ってほしいとのこと。看護婦が帰り次第、あわてて痰だしの練習。
シャワー室に今日のシャワー予定を見に行く、私を含めて3件の除毛予定(純粋にシャワーのみの人は30分、1時間の予定をとっている人は除毛も兼ねているようだ)、明日は3件の手術予定のようだ、そして朝1番目が「私」だ。病院から借りたバリカンで除毛、除毛の最終チェックは男性の看護師だった「醜い老体を若い女性にさらすのは、、、」と心配していたが、いらぬ心配だった。
 手術室の看護師から明日の手術の説明。知的ですてきな看護師だった。
9時半睡眠、明日の手術の不安もなく睡眠。
 8月15日に渡邊医師にお会いして、25日には執刀医の木内**医師から丁寧な説明を受け、私の心臓手術への不安は取り除かれていた。不器用な私が手術をするなら不安でしょうが、私は信頼できる医師に手術をされる方です。万、万、万が一私の手術が失敗して死ぬようなことがあっても、原子や分子に帰った私はわかりません。「地獄」「天国、極楽」私が一寸憧れる「地獄八景亡者戯」もすべて生きている人たちから見た「死の世界」です。
「まあ、私は助かる」と言う確信はあります、この病院の大動脈閉鎖不全症の手術成功率は99.8%ですから、私が助からないわけがありません。

心臓大動脈弁閉鎖不全症覚書

(4)
8月25日
 5時起床。いつものようにヨーグルトを食べコーヒーを飲み、6時10分頃の電車で妻と東京のニューハートワタナベ国際病院へ。
 ニューハートワタナベ国際病院は井の頭線の浜田山駅に2014年にできた病院です。金沢大学の医学部心臓外科教授で「心臓外科のブラック・ジャック」と呼ばれる渡邊剛医師の「患者のために世界最高の医療を提供する」と言う思いで作られた新しい病院です。(詳しく知りたい方は書籍「稚拙なる者は去れ」「医者になる人に知っておいてほしいこと」参照してください)
 病院の1階は受付と手術室。2階は外来と各種検査室。3階、4階は病室。4階に集中治療室。5階は病院スタッフのための図書室等々。
 前回は荻窪経由で浜田山駅まできたが、今回は渋谷経由にした。通勤ラッシュと渋谷駅での井の頭線への乗り換えが思いの外遠く、歩くのに大変だった。
10時10分病院着、3階で入院書類にサイン。私の部屋は303号室。10畳ほどにベットとテレビ、冷蔵庫、トイレ付きで差額ベット代が1日12000円。
 私の主治医は30代中頃と思われる垂井医師、看護師は市川**さん。11時30分、レントゲン検査、頸部超音波検査、血圧脈波検査、身長(181.6cm)、体重(74.2kg)。市川看護師より病院3階についての説明。「この病院はすべて個室で(低所得者用の差額ベット代無料の個室もあり)、3階は主にこれから手術を受けられる方と、回復されて退院間近な患者さんが入院しています」とのこと。
 12時40分昼食。
午後3時より、垂井医師より心臓血管カテーテル検査についての説明。1階の手術室に市川看護師と向かう。手術ベットに寝かされる、ネットで心臓血管カテーテル検査について2−3のブログを読んでいて「痛い、大変だった」と記されていたことを思い出し少々緊張気味。手術室に流れている音楽が正味2曲弱で終わり(10分以内と思われる)、手術ベットに寝てから15分ほどで心臓血管カテーテル検査は終わった。ひょしぬけするほど簡単で、ほとんど苦痛もなく終わった。心臓の血管に異常無しとのこと。
 18時過ぎ、28日(月)に私の心臓手術の執刀医、木内**医師(40歳代後半)より当日の手術についての説明。私と妻と東京に勤める次男でお話を聞く。約1時間強にわたり丁寧な説明を受ける。私の心臓は思いの外肥大していて小切開は難しく「心臓を止めている時間が短ければ短いほど心臓への負担が軽減される」ので通常の胸骨切断方法に決まる。また私が希望していた生体弁は「生体弁は15年ほどしか持たなく再手術が必要になるため、またその再手術が1回目の手術の5倍ほどの致死率があり、私の年齢(65歳)を考えたら機械弁をお勧めします」と木内医師の助言により機械弁を選択する。納豆よさようなら。
 私が13年ほど前に1ヶ月ほど日赤に入院して結果「原因・病名不明」で退院したとき日赤の主治医より頂いた書面を木内医師にお見せすると「これは感染性心内膜炎ですね、今となっては断定できませんが。循環器内科の医者がいたらすぐ気がついたでしょうが、そのときの細菌感染が今回の大動脈弁閉鎖不全症に繋がっているようですね」。
次男がその場でネットで「感染性心内膜炎 」を調べると、確かに13年前の私の症状にそっくりです。日赤では研修医上がりの若い内科医が私の主治医になり、膠原病、皮膚科、整形外科、細菌などの専門医がサポートする体制でした。そしてそれぞれの専門医が「私が専門とする病気ではない」と離れていき、最後の残った若い内科医が「原因・病名不明」と判断を下しました。
木内**医師より1時間以上にわたる手術の説明を受け「この医者に私の命を預けよう、預けても大丈夫だ」と言う確信のようなものが私の心の中に沸き「手術に対する一抹の不安」を消し去ってくれた。部屋に帰り妻と次男に木内**医師の感想を聞くと私と同意見だった。
 妻と次男が次男の家がある武蔵小杉に帰る。
夜9時、消灯。入院の興奮と外をひっきりなしに走る車の騒音で眠れない。

心臓大動脈弁閉鎖不全症覚書

(3)
手術が決まってから読んでいる本。
 体験談ブログを読みますと人によっては聖書などの心によりどころを求める宗教関係の本、手術体験記や医者の書かれた本、体験談記などを読まれているようです。
私は初めにニューハートワタナベ国際病院渡邊剛医師の本をネットで注文して、その間は気を紛らすために旅行記「世にも奇妙なマラソン大会」高野秀行。「リヤカーを引いて世界の果てまで」吉田正仁。の本を15,6日に読み、「稚拙なるものはされ」「医者になる人にに知っておいてほしいこと」渡邊剛医師の本を17,8日に読みました。非常に真摯で好感の持てる本でした。この方に手術をしていただけることは幸せと思いました。
その後は「宇宙に外側があるか」松原隆彦。この方の本はすきで読んでいます。「日米同盟のリアリズム」小川和久。ビデオはアマゾンプライで「ヒューマンプラネット」「ビックバン・セオリー」を見て気をまぎわわしています。
病は気からなのか、急に心臓病が悪くなったような感じで、「手術日まで心臓が止まらなければ良いが 」と夜中に考えてしまうこともあります。

8月21日
 来週の今日は手術日、私が手術をするわけでなく、私はベットに寝てマグロ状態。でも1週間前から落ち着きません。

8月22日
 心臓手術は仕方ないなと思う気持ちが9割、何とか逃げる方法はと思う気持ちは1割。でも、渡邊医者の本を読んだら、その真摯な態度に心が打たれ渡邊医者に出会えたことに感謝している。この状況では最高の出会いと思える。やはり心臓手術という大手術は真剣に悩み、自分の心臓、命を預けられる人をまじめに探すべきだと思う。ネットという時代はその可能性を平等に、広く広げたように思う。
「資本主義の終焉と歴史の危機」水野和夫。良書、星4個。
 6月2日に Nクリニックに行ったとき「心臓に負担をかけるので飲酒は休んだ方がよい」と医者に言われ飲酒を休むことにした。20歳からほぼ毎日酒を飲んできた。酒は酔うために浴びるように飲むのではなく、基本は日本酒を1−2合、暑い季節はビールを、かぼすの季節は焼酎を、気分転換にウイスキー。そんな「何でも」酒飲みです。
 13年ほど前の大病の時約1ヶ月ほど飲酒から遠のいていたのが「断酒」最長記録だと思います。今回は6月2日からビールの美味しい暑い季節も酒を飲まずに今日まで約3ヶ月断酒をしています。外科の医者は「喫煙は心臓にダメージが大きいのでだめですが、飲酒は飲み過ぎなければかまいませんよ」というお話。アルコール中毒でないという証明と、願掛けと言いますか「別に飲まなくてもいいや」が今の私の心境です。

8月23日
 猛暑。術後はしばらく床屋にも行けないと思い髪を切りに行く。普段より短くしてもらう。床屋の鏡に映る自分の顔を見ていて「最悪の時はこの顔で棺桶に入るのか」と思い鏡に映る自分の顔を見る。「ニワトリ愛を独り占め」(遠藤秀紀)、「大陸誕生」BBC・ビデオ。やはりちょっと動くと動悸息切れがひどい。今回の私の心臓手術はけして早くはないようだ。手術により心臓が改善されるとうれしいが。
入院期間は何日なんだろう?痛みは?不安になり心臓弁膜症手術の「体験ブログ」を読むが「十人十色」。10日もかからず退院した人、拗らせ退院後再入院した人、思いの外長期入院のなった人、痛みについてもそれぞれ違うようだ。当たり前だが全員、心臓弁膜症手術より生還して社会復帰を果たしたことのみ一緒です。その人たちの生還を「良いなー」と思います。
 妻が入院時の下着等々を購入してくれ、宅急便に詰めてくれた。病院に一緒に行ってくれ、私の体調を心配してくれ、今回の入院に必要なものもすべて買い出ししてくれた、ありがたい。

8月24日
 心臓弁膜症の手術が行われたら「人工弁」でも「生体弁」でも血が固まるのを防ぐためにワーファリンを暫く飲むようになる。ワーファリンを飲んだら納豆や色の濃い緑黄色野菜は食べられないらしい、朝納豆を食べる。ここ最近毎日のことだが、眠い。
 煮え切らないというか、まな板の鯉になりきる根性がないというか、グズグズと他人の心臓弁膜症手術体験記ブログを読み直している。新兵が戦地に向かう不安を紛らすために帰国した兵隊のブログを読むようなもの。まあ、戦争ほどの危険も無いでしょうが。
ジョンQデンゼル・ワシントン

心臓大動脈弁閉鎖不全症覚書

(2)
8月1日
 県都の中核病院、妻同伴。
11時予約だったが、1時間ほど待たされる。紹介していただいた心臓血管外科50歳代の女医***医者に診てもらう。Nクリニックから送られたデーターを見て「手術が必要ですね」。まだここに来るまで「手術は大丈夫」と高をくくっていた私は「え、手術ですか?」と言ってしまい、それに対して「手術をしないとこのまま5年は持ちませんよ」とはっきり言わる。
 正確な病名、手術のリスクなどの細かい説明はありません。「医者の言うことを聞けの世界」です。
「この病院では心臓手術は年間何件ほどですか?」と言う私の質問には、「うーん、60,年間あわせて60件ぐらいかな」急に歯切れが悪くなります。
 「貴方の体力で手術ができるかどうかわかりません、まず手術を前提の検査を受けてください」約15分ほどの問診でした。
その後、血液検査、尿検査をして、内科に回り薬剤によりどのように私の心臓が改善するか調べるために2週間の薬をもらう。
 病院全体が「ざわつき」看護師等の職員の私語が目立ち、緊張感が無く混沌とした世界を作り出しています。私の命を「預け、お願いする」関係は怖くて結べそうにありません。不安の一言。
Nクリニックの内科医の話を自分の都合の良いように解釈して「手術はないよ」と希望的観測でいた私ですが、外科医にも言われて完全に希望はたたれたようだ。さすがに手術を考える。家に帰り、心臓弁膜症の体験ブログや有名な病院の公式ページを見て調べます。
 便利な世の中で「何となく手術の流れ(個人差はありますが)がわかり」(とは言え、「読む」と「体験」では大きな違いはあります)病気の問題点、手術のリスクも私の心の中で整理されました。
 心臓外科医は手術数がものを言う世界のようです、一流と呼ばれるには年間100件ほどの手術経験が必要のようです。県都の中核病院の心臓手術数は年間60件ほど、5人の心臓外科医がいます。割り算をしますと一人あたり年間手術件数が十数件、ちょっと不安が募ります。

息子たちにも相談すると「セカンドオピニオン」の必要性を言われ、次男が東京にある
ニューハートワタナベ国際病院の総長である渡邊剛医師にメールで私の病状を送りますと、その夜には渡邊剛医師よりメールがあり、事務方との調整で8月15日にお伺いすることになる。

8月15日
妻同伴で東京の浜田山にあるニューハートワタナベ国際病院へ。病院で次男と合流。
ニューハートワタナベ国際病院は5階建ての2014年に開業された新しい病院だ。
総長の渡邊剛医師は若くして金沢大学の医学部教授になられ、心臓血管外科では世界的に有名な方のようだ。本も何冊か出版されている。ニューハートワタナベ国際病院は渡邊剛医師の思いに共鳴された医師たちで(多くは金沢大学医学部の医師たち)運営されている病院だ。
病院到着後、事務方と打ち合わせ。その後おきまりの「血液、レントゲン、心臓エコー」
検査。とは言え、患者(私)との対応、説明、検査によるストレスなどは、県都の中核病院とは雲泥の差だ。医者もそうだが、看護師も選ばれた人たちがプロとして自分の仕事に自負と責任を持って取り組んでいる。悪い意味で「医療の世界はこんなもの」と思っていたのが改めさせられた。
 3時頃から1時間強にわたり渡邊剛医師の問診。「若くして金沢大学の医学部教授」になられた方だから「偉そうで」「傲慢で」「自分の意見を押しつける」医師を想像していたが、私たちに媚びることはなく、私たちの意見や思いを押さえつけることもなく、真摯に私の病気について説明され、専門家として今後の経過予想をされ、それについての最善の方法を患者の私たちと共に考えてくれた。
 渡邊剛医師の問診後、私は妻に「渡邊医師に手術をしていただけたら、万が一のことがあっても私は文句は言わない」とまで話した。それほど患者目線にたち、患者に安心を与えてくれる医師だ。渡邊剛医師に出会えたことを神に感謝する。

東京から帰り、心臓弁膜症の入院日も手術日も(8月25日入院、28日手術予定)決まっても、「何か奇跡が起きないかと」心は揺れてる。
私の胸を切り開いて心臓を止めて手術をするんですから。心臓を止めるのです、不安になります。当たり前ですが私が手術をするわけでありませんので手術自体に不安はありません。「死」への不安もそんなにありません。死にまつわる諸々(天国、地獄、自分の宇宙の崩壊、家族のことなどは)「生きているうえに考える不安」であり、私が死ねば水分子と二酸化炭素と数種類の元素に戻ります。分子や元素には「不安」という意識伝達はありそうにありません。無理矢理納得します。

心臓大動脈弁閉鎖不全症覚書

(1)
 昨年の秋ころから、最高血圧が140−50から150−60に上がり、また脈拍も1分間に60台後半だったのが7−80に上がるようになり「我を張らずに、そろそろ高血圧の薬を飲むころかな」と思っていた。今年の春ごろから動悸息切れが気になり始め「年なんだ」と私の年齢と、体力のなさを改めて確認していた。
 ただ病気などとは思わず「13年前の原因不明の大病後の影響」と思いあきらめていた。
5月ごろから痰が絡むようになり、寝入りばなの咳に悩まされていたが「以前にも経験した、季節変わりの一時的なアレルギーだろ」と思い医者にもいかなかった。
5月末ごろから、夜中に動悸息切れがして目が覚めることがあった。
6月2日
「これは何か私の体はおかしい」と思い、かかりつけの医院(とは言えこの2−3年は医者のお世話にはなっていなかったが)に行き、問診、レントゲンを撮ると「肺に水がたまり(これが私を悩ましていた「痰」の原因のようですが)心臓が肥大しているので、すぐ近くの内科専門のNクリニックで診てもらってください」と言われ、その足でNクリニックに行く。
またレントゲン撮影と心臓のエコーを調べて40歳そこそこのお医者さんに「心臓肥大、血液の逆流が疑われます心臓弁膜症ですね、まずは肺の水を抜いて、少しでも心臓を小さくするために利尿剤と、降圧剤を飲んでもらいます。何でこんなに酷くなるまでほっておいたのかな」と大目玉を食らう。
6月6日
 再診。
 問診、レントゲン、エコー。肺の水は減り改善が見られる。心臓はわずかだが小さくなっているようだ。「これ以上心臓が小さくならないだろうなー。そのときは外科医との相談かな」PCを見ながら医者は独り言のように言う。「外科医?、手術?。心臓の手術?」と心の中で驚いていると「これ以上あまり改善は期待できませんが次回まで様子を見ましょう」次回6月20日に予約を入れる。
6月20日
 問診、レントゲン、エコー。私の心臓はあまり改善が見られない。「最後は心臓外科医の判断になりますが、心臓の手術が必要と思います」。心臓の自覚症状がほとんど感じられないので(後で知ったんですが、心臓の病は少しずつ悪くなり痛みもないので「疲れかな」「年かな」「体力落ちたな」で見逃すことが多いようです。考えようですが、今回心臓弁膜症が見つかって「ラッキー」なのです。病気を見逃して心筋梗塞脳梗塞などの病気で死んだり寝たきりになったりすることが多いようです。私の長兄は69歳の時心筋梗塞で亡くなっています)まだこの時点では「なんと心配性の医者だろう」と思い、心臓外科手術なんて自分の問題だとは思っていませんでした。
「ここより性能の良いエコーの機械が***病院にありますから、私がその病院で診察する日が7月18日ですのでその日に***病院にきてください」
7月18日
 心臓エコー検査。***病院。
7月19日
 Nクリニック。妻同伴で。
「***病院の性能の良い機械で調べても変わりませんね、僧帽弁閉鎖不全で血液の逆流がひどいです。大動脈弁も閉鎖不全のようです、大きな病院で外科の先生と相談してみてください」
 県都の中核病院に紹介状を書いてもらい8月1日に受診することになる。