荒れた農地

私がこの地に初めて来た二十数年前の6月、ムラの畑は麦秋の黄金色に包まれ、水田の緑は風にそよぎ、所々に見えるかやぶき屋根が景色の中に溶け込んでいました。
荒れた畑は見当たらず、苗が植えられた水田の畦はきれいに草刈され「きれいなムラだね」と妻と話したのがこのムラに来た第一印象でした。
 我が家の裏側を東西に連なる谷津は、数坪程の小さな水田から段々に作られ、きれいな水が流れていました。
あれから二十数年、暑い中で麦を刈りながら「麦は小遣い銭にもなんぺ」と笑顔で話していた文ちゃん、不自由な身体めげずに田畑で働いていた良平さん、「字が書けたら百姓なんか誰がする」と口癖のように言っていた千代松さん、力持ちでがむしゃらに働いていた三郎さん、そして今年は五郎さんが「あの世」に旅立ちました。
 「食うため、生きるための農業」を身体に染みこませていた人達の多くは旅立ち、米(農作物)は「食うために作る」世代から、商品として販売する私達世代にムラは大きく変わりました。
 農作物を商品として販売するなら、私達農家に経営の合理性が求められ、それに答えられない農家は「廃業」「倒産」「離農」することになります。農家は農業技術以上に販売戦略が求められ(目立てば勝ちと「言葉の踊る」時代です。農家が農作物でなく、宣伝で勝負する時代とも言われます。1年生の素人農家もプロの農家に勝てる「木の葉が沈んで、石が浮く」時代です)、勘違いする農家も多いようです。
 「農家経営の合理性」のもと、平地の5倍以上も手間がかかる谷津田は山に戻され、小遣い銭にもならない麦(赤字のことが多いです)は作られなくなり、畑は荒れて、草刈りも「割に合わねえ」と畑や水田を草ぼうぼうにする家も出てきました。「農作物を作らないことが、損しない確実な方法だ」とムラでは言われます。
  農地は愛でる物ではありません、農作物を生産して農家が生活をする場です。農家が経済的に採算が取れない農地は耕作放棄されます。これが、国も、街の人も、そして農家自身も求める「農業の効率化、合理化」です。
一方で「耕作放棄地の解消、食糧自給率の改善」が叫ばれ、あの手、この手、絡み手、札ビラで新規就農者を農村に呼び込もうとしています。
 「農業が好き」で農業経営が成り立つなら、荒れ地が広がったムラにはならなかったと思います。何十年も農業で生きてきたプロの農家が、経営的に合わなくて投げ出した農地を甘言を持って素人に押しつける方法は正しいとは思えません。
 頑張る農家ほど「農政、農協の言うことを聞かない。そんな奴らに俺らのお金(国の予算)を出せるか」と言う、心の狭い人達の声も聞こえてきますが、ここはお国のため、大人になり、それらの予算を今頑張っている農家に投資した方が確実で、効率が良いと思うのですが。