農村の移り変わりと、よそ者

 農村に移り住んだ当初は「住所を移し、その地に住んだらムラの一員として受け入れられるもの」と単純に考えていた私です。移り住んだ農村での日々の生活では不便はあまり感じないのですが、肝心なときに何となくムラの人たちの私たち家族を見る目がよそよそしく感じ、思い切ってムラの古老に「どうしたらムラに受け入れられるか?」と直接たずねた事があります。
 「そうだっぺな」としばらく考えてから「まあ、半人前ではだめだな。家族を持った1人前でないとムラでは信用がおけなく、ムラの役も任せられないからな。ムラの意見に反対して、何をしでかすかわかんねーもんな。街の人のように貸家住まいもだめだべ、どんな家でも良いが自分の家を構えなければな、穴を割ってすぐに逃げ出すからよ。後は、先祖の墓だな。先祖を大切にできないやつはだめだっぺ」と言われました。
それから約30年が過ぎ、墓はまだですが(私が入る墓で、私が先祖になるようです)、家族を持ち、家を持ち、少々の土地を持ち、逃げ出すことも、逃げ出す気もなく、新住民としてムラで生活しています。(分家をすると「新宅」、私のようによそから来て家を構えると「新住民」、墓をもってムラの人。貸家などに住んでいる人は「よそ者」と呼ばれるようです)
 30年ほどの時間と共に、私にムラの仕来りや自然とのかかわり、農村、農業について教えてくれた明治、大正生まれの古老たちの多くは先祖になり、それぞれの家の墓で眠りにつきました。ムラも物わかりの良い戦後生まれが多くなり、「本家、分家」、「地主、小作」、「親分、子分」などの縛りも弱まり、平等という名の孤立化がムラでも進んでいます。(私がムラに来た当初は、戦前小作だった人は地主の家に入る時はお客さんが入る玄関口を避けて勝手口から入り、身にしみた戦前の上下関係を守っていました。そして地主、親分と呼ばれる人達は小作、子分の人達の相談やもめ事の解決に努めていました)
 最近の不景気のためか、環境問題を抱えてか、はたまた何となく都会の生きにくさを感じてか、農業を志して農村に来る人は多いです。(比較の問題で、昔に比べて多くなっているという意味です。ムラから街に出ている方が数の上では圧倒的に多いです)
この近くに新規就農した人達も優しく、素直な人達が多いです。
 ムラは新規就農者に求めるのは、息子が家の農業が継げる様な都会の新しいアイデアによる「食べられる農業」を見せてもらい、荒れた農地を耕してもらい賑やかで元気なムラを夢見ます。しかし、多くの新規就農者は豊かな時代に育ったためか、物質的な欲も、金銭的な欲も少ないようです。農村の空き家を借り、農作物を作り、自給自足に近いような生活を好みます。
 都会の矛盾を背負い、都会の視点のままムラに来て生活をしているようです。携帯電話とPCは都会とのつながりを維持するために新規就農者には必需品のようです。
 そこには「自分の農業、農的生活」が有りますが、その底辺を支えるムラについての考えはすっぽり抜けているようです。「よそ者」の生活を楽しみ、色々な個人的な理由からムラを出て行く人も多いです。それぞれが大切な決断をしての行動とは思いますが、残されるムラから見ますと割り切れない気持ちが残ります。
 新規就農者だけでなく、ムラ全体で「農地を耕し、農地に縛られる」という言葉は死語に成りつつあります。
 「農業の前にムラがある」この当たり前のことが忘れ去られつつあります。
新規就農希望者のため親身になりムラの中を駆け回り農地や空き家を探し、新規就農希望者とムラを繋ぐ努力が無駄になることも多いです。「やっぱりよそ者は」と言う陰口がムラの中から聞こえてきそうです。ガンバレ、ガンバレ布施君。