農業の6次産業化

 農業は土地を利用して、人間の衣食住に必要な作物を作ることを生業とする仕事の総称です。
 米を作り、野菜を作り、家畜を飼う。育てた農作物を家族で食べ、残りを換金する、それが農家の生活でした。農家もムラの中だけの生活なら今のようにお金に振り回されることも少なかったと思いますが、ムラは街の経済に組み込まれ、街の魅力的な消費が、流行が、瞬時にムラの中に入り込む時代になってしまいました。農家にそれらの魅力を「我慢しろ」と言うのは残酷で、無理があります。
 農家と他産業との収入の格差からムラに「勤め人」と言う人達が増え、その「勤め人」と農家との収入差が年々拡大して、何とか「勤め人」の収入に追いつくようにと農家は規模拡大、専業化に追われてきましたが収入の格差は広がる一方です。
 一寸話がずれますが、畑に植わった1万円分の大根より、1万円札の方に価値が認められる時代です。豊かさを測る物差しとして「現金」以外が見直されるともう少し農業と、「勤め人」とのバランスがとれるのかも知れません。
 個人的には1万円分の大根の方が私は好きです。1本50円として200本の大根が整然と並んで植わっている畑を見ますと心が豊かになります。これがキャベツでも白菜でも同じ気持ちになります。しかし現実の畑の大根は相場に翻弄されますし、時間と共に価値も下がります。換金性も悪いです。この大根が並んだ畑の光景を農家が美しく豊かに感じられるには、国から税金の督促状が来なく、医療費、保険、年金の掛け金、教育費などで悩まないでよい金銭的なゆとりが農家に必要なのです。
 「農業は土地を利用して、人間の衣食住に必要な作物を作る」などと小さく農業を解釈していては農家は生き残れないと、農作物を作り流通に活路を見いだす農家、自分の生産した農作物を原材料として農産加工に活路を見いだす人、自分の生産した農作物の販売に活路を見いだす人、農作物の差別化を計るために宣伝に活路を見いだす人、1次産業である農業が「勤め人」達の2次産業、3次産業との境界を取り払い、彼らの世界に出て行こうとしています。これを農業の6次産業化と言うらしいです。
 何事も後ろ向きでは活路は開けませんが、2次産業の農産加工も、3次産業と言われる販売、宣伝も農家が生産の片手間に出来るほど簡単で楽な仕事でしょうか。生産、加工、販売と色々なことが出来るほど農家は器用なのでしょうか?ここは慎重に判断する必要があります。
 器用な農家もいますが、ほんのわずかです。多くの農家は不器用で人と接するより農作物や土を見ている方が好きですし、自分が食べている農作物を「安全、危険、美味い、不味い」などと分けることを苦手としています。そのような農家が6次産業化に向かいますと、得てして本業が分からなくなることが多くなります。
 素人の怖さと言いますか、加工、販売、宣伝の基礎的な教育や技術もない多くの農家が農産物の加工に乗り出しますと「効率化、コストカット」と自分の生産より安い農作物を仕入れて「自家生産」として販売して、自分の農作物を売るために販売、宣伝に力を入れすぎて「詐欺商法」に限りなく近い販売方法をする農家もいるようです。
 このような農業の6次産業化の一部を切り取り、面白可笑しく取り上げ、その宣伝、時代に乗るのが農業の成功と考える今の時代に危惧を覚えます。
 街では日本の食糧自給率の低下をおそれ、農村では農地で農作物をちゃんと作ることを疎ましく、愚かな事という風潮が蔓延して農業の生産技術が退化しているようです。