私の住んでいるところ2

 登記上の地名は字冨谷雷神堂です。
 私はこの雷神堂と言う地名が気に入り、我が家の卵の商品名を「雷神堂たまご」にしようかと一瞬悩みましたが、何となくお菓子の興しの名前のようでやめました。
 その後に分かったことですが、道を挟んで向かいの山の上に雷神堂という祠があり雷の神様が祭られていて、1年に1回ムラの人達がお煮染め酒などを持ち寄り、ささやかな祝い事を成していました。
 明治でしょうか、大正でしょうか、それとも昭和でしょうか、役人が地図に地名を書くときに向こうの雷神堂とこちらの地番を間違えて記入してしまったようです。
 開墾したこの地(この就農地に敬意を払うために、この地に植わっていた雑木や篠竹、藤の蔓、雑草を全てを動力の機械の力を借りずに、鎌と鍬と鋸で私と妻の手で切り倒し、苅りました。太い雑木の直径は3ー40cmを超えていて、直径が20cmもありそうな藤蔓が絡みついていて、1日で1本の雑木を切り倒し、片づけるのがやっとのときもありました。真夏の炎天下、鉈を振り下ろし、鋸をひき、水筒の水でのどを潤し、握り飯をほおばる。木を切り倒すと共に私の頭の上の夏の青空がだんだんと広がり、握り飯は美味しく、本当に楽しく、良い思い出でです。そして、私の一寸の自慢です)から多くの石器や土器の欠片が出てきました。
 土器の欠片は20kg入りの餌袋で5−6個分、石器や石器らしきものも一山出てきました。
ムラの古老の話によりますと、このなだらかな丘では大正時代まで焼畑農業が成されていたようです。そのためか土器の多くは黒く焼けていました。
戦後は田畑に入れるための若葉、落ち葉拾いのムラの共有地だったようです。
 我先に争って集めた若葉も、落ち葉も化学肥料に取って代わられ、所々に残っていた松も松食い虫で枯れて雑木が生い茂る林になっていました。
 石器は、鍬の形をした石器、山の実をすりつぶすために利用したと思われる石器、皮をなめすために使われた石器、装身具に利用したのではと思えるようなきれいに8角形に加工された石器、なんに利用したか分からない大量の石器、そして1万2千年ほど前の時代の鏃も出てきました。
1万2千年ほど前の鏃、そして大量の土器と石器、この地には長い時間、多くの人達が暮らしていたようです。由緒正しい土地です。(笑)
 これだけ沢山の石器が出てくるのに、金属類は皆無に等しいです。この地にあった高さ約1m、直径2m程のお墓から(造成前に御祓いしていただきました)三途の川の渡し賃と思われる江戸時代の水戸藩天保通貨が出てきたぐらいです。
金偏には縁のない人達の住む土地のようです。
猛暑、残暑が厳しい毎日ですが、皆様お体をお大事に。