私の住んでいるところ1

 私の住んでいる大字地域は近くに大きな河が流れています、この河は今は堰きも出来、護岸が整備され大雨でも暴れることはなくなりましたが、戦前は大雨が降りますと河川敷の田畑が水に浸かり、河から500m以上離れているこの地域の下まで水に浸かったようです。
 その河から4−50m程高いところに開け比較的温暖で冬もそれほど雪が降らなく、昔から人間が住みやすい地域のようです。
 畑や丘陵地域を新たに開墾すると、石器や土器の欠片が「ザックザック」と出てきます。これが「黄金ザックザック」ならこの地域もまた違った歴史を刻んだのでしょうが。
 話がそれますが、近くに「金洗いの池」や「金」の付く地名も多く、昔は砂金も出たとのことです。時間が許すなら砂金とりでもしてみたい夢もありますが、あくまで「遠い昔」の話のようです。
 字地名は冨谷と言います。昔から住んでいる人の中には「猫の額のような土地ばっかりで、何が冨谷だ」と嘆く方もいます。20戸ほどでムラを成し、1件平均2−3反歩の畑と、5反歩ほどの水田が生活の糧でした。私が来る前は、煙草、蕎麦、麦、加工トマトなどが主な農生産物でした。
それらも平成になると輸入農作物に押され、換金作物の煙草や加工トマトの会社との契約栽培も解除され、それと共に畑を守るために作付けされていた蕎麦や麦もやめられ、畑で頑張ってきた大正、昭和の一桁の農家の方々が農作業から足を洗い始めて、畑は主を亡くして荒れ始めています。
 水田は谷津を先祖の方々が開墾した田んぼが多いです。「米あまり」と共に不便な水田から谷津に戻され、家々の前に開けた良田も所々荒れ始めています。
 荒れた水田には木が生え、畦草がボウボウと伸びています。損得経済にどっぷり浸かった我々世代以降は「経済的に割に合わない」ことはやりません。地域の絆も、結いも、恥も金という物差しによって計られるようになってきました。
我が家はムラの外れのSさんの家から約300m程奥に入り、100m程の急な坂道を登り切ったところです。
 開墾した当初、ムラのお婆さんが息を切らせながら上ってきて「かわいそうにの、何でこんな山奥に住むんだっぺ。ムラ内にも土地があったろうに」と心から同情されたこともありました。