安全と安心

 東京電力原子力発電所事故による地域環境への放射能汚染により、農作物の生産者と一部消費者の間で「安全、安心」について認識の違いがあらわになっています。
 農作物の生産者は「農作物の放射能検査により安全は確認済みです、安心して食べてください」と言い、一部の消費者は「その検査は正しいのですか?、数値にごまかしはありませんか?、セシウムだけでなくすべての放射能を調べましたか?、100%の安全を保証してくれますか?でないと安心して食べられません」と話がかみ合いません。
 本来、安全と安心はほぼ同心円を描き人々の心の中で安定化している物ですが、今回のような放射能汚染、野菜の農薬汚染、ダイオキシン、等の食品の安全についての問題があらわになりますと、人々の心のぶれと共に安全と安心の安定化は失われるようです。
 辞書によりますと安全は [名・形動]《中世は「あんせん」とも》危険がなく安心なこと。傷病などの生命にかかわる心配、物の盗難・破損などの心配のないこと。
安心は [名・形動](スル)1 気にかかることがなく心が落ち着いていること。また、そのさま。「列車で行くほうが―だ」「―して任せられる」2 ⇒あんじん(安心)
と書かれています。
「安全、安心」を上記の言葉の意味のままとらえますと、一部消費者が求める「100%の安全等々」に利があるように思えますが、食品の安全は「歴史的経験則」と「社会的利益を考え、科学的にどこまで社会が危険を許容出来るか」により安全基準が決められてきたのだと思います。(安全基準の決め方が正しいというのではありません。目先の利益を求めすぎますと自然環境や多くの生き物に被害を出すことが多くなります。そしてその様なことが繰り返されるために「安全」が不安定化しています)
 このことにより、元々食品は100%安全を求める物でもなく、科学的にもすべての人の食品安全を100%保証は出来ません。(この点を利用して、消費者の不安を煽り講演会などで儲けている学者や大学教授もいるようですが)
 生産者が放射能検査による食品の安全は確認済と大声で叫んでも、安心は個人的な気の持ちようですから、「不安」と思う人の心を「安全」と言う科学で変えるのは難しいかと思います。
自分たち農業者が今回の放射能汚染に対してどのように対応して、安全、安心に努力しているかを、消費者に何回も丁寧に説明して、安全と安心がはほぼ同心円を描く時を待ちたいと思います。それでも理解できない人は「勝手にせい」です。