味覚 

 6月、梅雨。蒸し暑く鬱陶しい毎日です。(天候の鬱陶しさを晴らすかのようなワールドカップでの日本の快進撃。自然に笑顔がこぼれる日々です。私の嫌いな「岡ちゃん」ありがとう。)
 最近の梅雨の蒸し暑さで、春からの天候不順で成長が遅れていた夏野菜もグングンとのび、我が家の食卓を茄子や胡瓜などの夏野菜が彩り始めました。
 我が家は米は作っていませんが、野菜はほぼ自給しています。自分の畑で出来た野菜を毎日食べていますと「美味い、不味い」とその都度食卓で感激したり、苛立ったりすることはありません。当たり前のように我が家の食卓にのぼる季節の野菜を食べています。
 卵にも言えることですが「美味い、不味い」は味覚として比較する対象(記憶)があって始めて出てくる言葉のようです。
 私の子どもの頃は今のように加工品は多くなく、温室野菜も見かけず、「地産地消」が当たり前で地元の野菜や魚を食べて育ちました。今のように肉や乳製品は身近な食品ではなく、煮魚、焼き魚に(海が直ぐ近くで、私が小さかった頃まで網元が地引き網をして、近くで遊んでいた私たち子どもが雑魚を頂いた記憶があります)野菜の漬け物がおかずでした。
 その様な育ちのため、素材の味を大切にする「薄味」より、「甘い」「辛い」「塩辛い」などと、はっきりとした味が(要するに「濃い味」です)比較的好きな私ですので、素材の味について他人様に自慢できるほどの「うんちく」も味覚もありませんが、化学肥料も農薬も使わず育てた旬の野菜を30年以上食べ続けて、我が家の食卓の「野菜」や「卵」の味が当たり前の食べ物の味として私の身体に染み込んだようです。 
 我が家の野菜の端境期に購入した野菜や、街に出て付け合わせに出るサラダなどを食べて、改めて我が家の野菜の美味しさを確認させられます。
 街で食べるレタスやキャベツ、胡瓜のサラダは本当に不味いです。感心するぐらい野菜そのものの味が無くなっています。極端な言い方をしますと、レタスもキャベツも胡瓜も同じ味です。そう、ドレッシングの味です。
 筋っぽいだけのゴボウ、糖度だけに特化したトマト。見た目だけを気にしてその物の味も栄養価も無くした温室育ちの野菜。大根、ニンジン、里芋、葉物、取り上げたらきりがないほど日本の野菜は香りを無くして不味くなっているようです。
 不味くなった素材の味を誤魔化すかのように、「食べ放題」「大盛り」「ジャンクフード」と砂糖、塩、芥子、ドレッシングの味を強調した料理が増えているような気がします。
 食べ物の味の比較は『子どもの頃の味の記憶』との食べ比べでもあり、子どもには素材の味を楽しめる「美味しい野菜」を食べさせてください。