分かってはいるけれど

 日々の仕事を監視する上司もいず、売上ノルマも無く、自分の失敗も「自然、天候が」と言い訳できる農業は、知らず知らずに百姓を甘やかし我が儘にします。事の善悪は別に、この自由と言いますか我が儘が百姓を百姓とたらしめている核のように思えます。
 ムラの中で百姓仕事で生を全うできる時代は終わり、百姓も市場経済の社会に飲み込まれ、百姓仕事が農業に変わり「お金」が農家の仕事を振り回すようになりました。
 お金が農家の上司になり、お金が農家にノルマを課し、お金が農家の失敗の言い訳を拒絶します。
 農家の成功も失敗もお金で測られるようになり、会ったこともない中国の農民と農作物の価格で戦わされ、生き残るために「生産から、加工流通まで農家の手で」と煽られ、素直な農家は地下足袋を脱ぎ、ネクタイを締めて営業だ、農産物の加工だと大忙しです。
 そんな現代の農業の流行を斜めに見ながら「分かってはいるけれど」と二の足を踏む農家も多いです。
 自分の身体を通して自然と、田畑と、農作物と話し合いながら過ごす時間が多いのが農業と言う生業です。口を使い人と話すより、皮膚で、心で、汗で自然に話しかける時間の多いのが農業、百姓の生活です。それが急に「街に行って口で稼いでこい」と言われても、
「分かってはいるけれど」できないのが百姓です。口が動けば手は止まると昔からムラでは言われるのですが。
 「今、種を蒔けば、除草をしたら、収穫をすると作物に良く、そして儲かるのだが」長く農家をやっていればこのような適時の感は働くようになります。でも「天気が、村の付き合いが、野暮用が」と「分かってはいるけれど」時機を逸することの多いのも農業、農作業です。仕事より村の付き合いや私を優先したための自業自得とも言えますが。
 自然環境という落とし穴があるので農業は机上の計算道理には儲かりませんが、日々農作物の利益の最大値を求めて自分を律し、計画的に農作業を進めると農業はもう少し儲かる産業になるかも知れません。
でも、四角四面に自分自身を農作業の計画に押し込めたら、農業がもつ良さが潰されて息が詰まるのも現実です。「分かってはいるけれど」難しいのが計画的な農作業です。