我が家の就農地

tamagoen2007-04-18

私たち家族が今住んでいる就農地は、平成元年にこの町の友人から譲り受けた山林です。
「昭和30年代、日本の農村に『近代化』が洪水のように押し寄せ、山林の下草刈りも薪拾いも『経済合理主義』に押し流され、山は荒れ、人に捨てられた山は篠竹と雑木の林に変わった」そんな日本の何処にもある荒れた雑木林でした。
 妻と共に初めてこの土地を見に来たとき、金鶏(誰かが捨てたか、どこかの家から逃げてきた鶏と思います)の雄が私たち二人の5mほど前を横切り、その美しさと縁起の良さに(鶏が飼える土地を探しに来た私たちを金鶏が歓迎?してくれたのです。) その不思議な体験に二人で喜び、この地に早速決めました。
平成元年の初夏、おにぎりと水筒を持ち、妻と二人で鎌と鋸で約1ヶ月半の時間をかけて山の雑木を全て私たちの手で切り倒しました。大きな雑木は直径30cm程になり、藤蔓などが縦横にはり、1本の木を切り倒すのに半日掛かりのこともありました。
 チェンソー等の機械を使えば早く、楽だったのでしょうが、「開墾のために切り倒される木は全てこの手と汗で切り倒す」と、つまらない拘りがありました。今から考えますと「なんと、まあ」と我が身を呆れるやら、感心します。
 造成されたこの地からは沢山の焼けた土器の破片や、石器が出てきました。私の所の地名は「雷神堂」です。そして隣の山の地名は「タカボッケ」で村の古老の話ですとアイヌ語で「日の出るところ」という意味のようです。この地名のように鎌倉幕府アイヌ追い迄このあたりにアイヌの人達が住んでいたとのことです。その人達が使っていたのか、比較的新しい沢山の石器らしき石の数々。しかし鉄や銅などの金属系の物は何も出てきませんでした。出てきた石器の中で一番古いと思われるのは約1万2千年前の鏃でした。(写真参考)
 そして焼けた土器の破片が多いのは、この地は明治時代まで焼き畑農業が行われていたようです。その後の大正、昭和は農家の生活を助ける山として落ち葉や薪、そしてキノコや山菜などを得るための集落の共有地だったようです。
1万2千年前の狩猟民族から延々と繋がり、そして今私たち家族がこの地を借りています。感謝、感謝です。